「宮本家原爆受難記」 宮本文甫
「宮本文甫氏御夫妻は、五人の子供さんと爆心から程遠からぬ江平町に居住して全家族がその犠牲となられたのである。原爆投下の日に二名、それから二週間に四名が次々と原子病にたおれ、最後に文甫氏自身が原子症を発症した。その病症にある時、八月九日以来の恐るべき出来事を克明に記録された。唯一人次女和子さんが大村女子師範に在学して難を逃れた。和子さんは、八月十二日以来弟姉妹を、最後に父を看護され、その手記を父文甫氏の記録に追加した。全文百十枚に及ぶ。
昭和二十八年八月九日
この日私は川南造船書の製缶工場にいた。(この造船所は、長崎郊外の香焼島にあり爆心地より十二キロの距離にある。午前十一時二分、一大閃光と爆風におそわれ、すぐに工場外にあるトンネルに退避した。十二時半に「出よ」という伝達があり、外に出てみると、長崎は大火災を起しているらしく、黄色い煙が全市を覆うている。人々はこれを眺めて騒いでいるのである。間もなく伝達が出た。「長崎居住者は、午後二時の船で帰宅せよ。」午後二時の船に乗る。大浦海岸に上陸し、歩いて長崎駅前まで来ると、火災のために先に行けない。火災と火災の間を縫って勝山町から西山水源地に至り、ここから山に登り、浦上の方向に突進する。浦上の爆心地帯を見下ろせる地点に来た。
何という光景であろう。はるか向うの麓まで火と煙の焼野原である。空は黄色に変り、太陽の光もボンヤリとしている。
本原町のフランシスコ派神学校、崖潰して壁だけの浦上天主堂。、その向うの山里小学校、その左方の城山小学校などいづれも煙を吹き出し、コンクリートの残骸をさらしている。目ぼしいこれなどの建物が白雲の中のにかすんで見える惨胆たる言語に絶した光景である。それでも江平の自分の家だけは助かっていると希望的に考えながら山を下る。やっと江平を一目で見渡せる地点にたどりついた。見ると何にもない。樹の幹だけが棒杭のように白煙の中に立っているだけだ。我が家の前につく。燃えていない。潰れただけだ。離れた一軒家であったので類焼を免れた。「お父ちゃんは帰ったよ」-と石垣の外から呼んでみた。「お帰えんなさい」と口々に子供達が返事した。
文子「オ母チャンは町に出たまま未だ帰りません」「ソーカ、外の者は?」
文子「明子チャンがあそこに死んでます」と潰れた家の一隅を指した。
妻は町内会の会計をやっており、集まった金を銀行に預けるといって出かけたのである。今朝も例によって朝から警報が鳴り、やがて解除になったので、「今のうちに」といって出たまま帰っていない。
長女文子は、女子挺身隊員として工場に出勤する筈だったのだが、体の調子が悪いので床をとって休んでおり、寝たままの姿で家の下敷になった。懸命に壁を破って独力で外に出た。全身に打撲傷を受けている。
三女博子=ミシンをかけていると飛行機の爆音がしたので、庭に呼びかけ遊んでいる宏を抱き上げ、家の中に駆けこんだ途端に爆発が起って家の下敷となった。
文子は近所の山口さんの応援を得て、博子と宏を救い出した。山口さんはその後気分が悪くなったといって帰られた。無数の硝子の破片が皮膚に喰い込んでおり、全身打撲傷を受け、特に左腿に箪笥が倒れかかり、その上を屋根に圧せられて重症だ。
宏=博子に抱かれたまま下敷になり、左側の耳の上を長さ十五糎、深さ骨膜に達する裂傷を受けた。首をかしげている。
四女智子=右大腿骨々折を起こし、その骨端がつき出しているのが外から分かるくらい、無数の硝子破片創。全身の打撲傷。
五女明子=宏と庭に遊んでいる時、飛行機が来たーというので、宏を抱いた姉博子と同時に家の中にかけこんだのであるが、博子のすぐ横に梁に圧せられて、絶命。始めは「姉チャン、姉チャン」と呼んでいたが、間もなく死亡。
大体以上の如くで、妻富士は行方不明、明子即死、文子、博子、智子、宏の四名は、負傷はしていても命に別状なしと考えた。庭に戸板を敷いて、これに寝たり、立ったりして、工場から帰った父を迎えたのである。時に午後六時半。この時まだ明子は梁の下になったままであった。通りかかった中学生二名に応援してもらって屍体を取り出した。箪笥の引き出しに遺骸を乗せ、友針の晴れ衣を見つけ出したのでこれをかけてやる。供えるべき花はない。やがて日も傾いた。子供達は昼食もとっていない。妻が万一に備えて屋敷内三ヵ所に米を埋めておいたのを思い出し、これを掘り出し、壊れた鍋を拾ってこれで炊り米を作った。子供達は殆んど食べない。
夜になると、天主堂の火災で周囲が明るい。飛行機が時々飛来する。又幾度も附近に爆弾の炸裂音を聞いた。(註、こ夜の、この方面に爆弾を投下したことを人々は後々まで恨んだ。)火災を免れたことは不幸中の幸いであった。潰れた家から夜具を引き出して戸板の上に親子五人が試練の第一夜を浅い眠りについた。
八月十日
浅い眠りから覚める。焼け跡の彼方から妻がとぼとぼ歩いてくるという幻想にフトとらわれる。ワレ鍋を修理してご飯を焚いたが、昨夜同様子供達は殆ど食べない。子供達は昨日のままの姿である。血だらけの破れた着物を着ている。潰れた家を掘り返しシャツや着物を取り出して着替えさせる。負傷の手当を受けさせねばと気ばかりあせるが、この惨状ではどうしてよいか見当がつかないで惑っていると、天主堂下に住む石崎君が立ち寄った。彼は同じ工場に働く人であるが、工場から帰ってみると家は焼け家族は一人も見当たらない。山に避難したのではないかと山のほうを探して歩いたというのであった。この石崎君に、川南の医療班に連絡して救護を依頼する。午後、妻富士の捜査に出かける。外に出てみると、石垣は崩れ、瓦礫が散乱し、樹木や家が倒れて道を塞ぎ、これが火災を起しているのである。火気は尚猛烈で通行できる道はかぎられておる。人々が、家族を探して彷徨している。工場から帰宅してみると家は焼けて家族が見当たらないという人達ばかりである。至るところに屍体がころがっており、タドンのように真黒だ。男女の区別すら分らない。
幾度も敵機が爆音を轟かせたが退避すべき壕も殆ど皆火に覆われている。とうとう妻らしい屍体を発見できないで、子供達の待つところに帰った。
夕刻になって待ちこがれた救護班が現われた。喜んだのもつかの間で、繃帯も薬品も使い果しており「又やって来る」と言い残して立ち去った。板を取り出して夜露を防ぐだけの小屋を作って第二夜を眠る。
八月十一日
明子の屍体が臭気を発し始めていると文子が言う。昨日は忙しくて火葬できなかったのであるが、今日はどうしても焼かねばならぬ。田の中に燃料を積み上げ、屍体を横たえる。子供達が一人一人明子に別れの言葉をのべる。牧師がいないので、私が神に祈りを捧げ、一同で讃美歌を歌ってから火をつけた。午前十時ごろ「宮本さーん、宮本さーん」と連呼する声が聞こえる。昨日石崎君に連絡を依頼した川南の救護班が十名程救護に来てくれたのである。涙がとめどなく流れる。
大腿骨折と無数の硝子破片創を受けた智子と、頭部に大きな裂傷を負い耳の垂れ下っている宏を救護所の大光寺に送ってもらうことにする。二人を担架に乗せ自分と文子が付添って出発する。
真夏の太陽は容赦なく照りつける。通りの両側の火気は衰えていない。日陰を作る一本の樹すらない。ひどく喉が渇くので、破れた鉄管からほとばしる水道の水をも文子の持っているヤカンに受けて皆でかわるがわる飲む。文子は一行に遅れがちである。(後で考えると、この時既に原子病を発症していたのである。)一時間半もかかって大光寺に着く。来てみると傷病者で充満している。火傷で化膿して膿汁を出している人が多い。智子も宏も傷が化膿しており、手早く応急手当を受けて繃帯して、寺の本堂に沢山の負傷者と枕を並べて寝せる。呻く者、泣く者、騒々しいことはなはだしい。文子を看護のため残して帰路についた。この火から炊き出しの握飯が配給され大いに助かる。副食には原爆で片面を焼いた南瓜、馬鈴薯、玉ねぎ、茄子を焼け残りの家から貰ってある。日は落ち、博子と二人だけの淋しい夜だ。大光寺の三人はどうしているだろうと案じながら第三夜を眠る。
八月十二日
明子の骨を拾い、花活の壷に納める。
隣組長をしているのでその任務も果さねばならない。組内の生存者、負傷者、死亡者を調査する。メガホンで呼びかけて人々に彼是の注意を与える。
この時、「お父チャマ!お父チャマ!」と遠くから呼ぶ声がする。和子だ。泣きながら天主堂の細道を駆けて来る。メガホンで第一声を送る。「泣いてはいかんよ!」泣く余裕など父にはないのだ。博子が不自由な足で石垣の下まで迎える。大村師範に行っていた和子は、昨日大村を出発し、長与国民学校で一夜を明し、徒歩で今着いたのである。
午後和子と二人で、妻の捜査をかねて大光寺の子供達を見舞いに出かける……烈日の下に屍体は散乱する。既に腐敗しており、腫れ膨れて、中には皮膚が破れて腐敗汁を流しているものもある。臭気が鼻をつく。屍体も幾十も積み上げたところもある。和子は、母の金歯をあてに針金で口を開き口内を調べている。衣類の一部でも焼け残っている屍体があると……もしや見覚えのある着物ではないか……と手にとって調べもした……が、それらしい屍体も見つからずに大光寺に着く。ところが三人ともいない。朝のうちに香焼島の川南病院に移送されていた。今からでは、島に行けたとしても帰りの船がない。島に帰るという大河内君に食物や衣類を託して帰る。博子は今日から頭が痛いと言い出したが別に気にも止めず。
八月十三日
和子を香焼島に子供達の見舞いにやる。今日から炊き出しが中止となり、米の配給を焼け跡の松山町で受けることになる。博子の容態がよくない。しばしば飛行機が飛んでくるので、博子を壕の中に寝せることにする。和子は帰ってこない。壕の中で博子と二人で寝る。
八月十四日
博子が粘液便と血便を今日から出し始める。壕のわきに土を掘ってそこで便をさせることにする。妻の死体捜査に出かける。大学病院にたくさん収容されているという話を聞いたので行ってみる。
ここは完全に焼けてコンクリートの残骸でしかないのに、大学病院だからというのであろう。病院も廊下も傷病者で充満している。勿論布団などなく、コンクリート上に、むしろを敷き、裸体のままころがっている。皆化膿して異臭が鼻をつく、事務所も無ければ名簿もない。仕方がないので、物売り見たいに妻の名を呼んで廻る。
「宮本フジはいませんか、宮本フジはいませんか」呼んでみても答えるものはない。ここにもいない。諫早、大村、嬉野、早岐などの陸海軍病院に収容されていないか、最後の希望としてはそれだけだ。
午前十一時ごろ、川南作業隊を引卒して篠田君が来て下さる。ありがたいことだ。造機設計課の数名の方々だ。家財の掘り出しがはかどっていないので掘出しをやっていただく。和子は今日も帰らない。なんとなく不安を覚える。
八月十五日
掘り出していただいた家財を整理する。夕方になって重大放送があり、終戦になったという噂を聞く。信じられない。デマだと気にもかけない。
今日も和子は帰らない。いよいよ不安を覚える。明日は自分で是非行って見ることにする。
八月十六日
博子は衰弱してついに寝込んでしまった。正午頃から香焼ゆき。長崎駅前で新聞を手に入れる。原爆以来始めて見る新聞である。終戦が本当だと知った。
島に渡る船の中で、福岡の妹、大阪の妹、朝鮮の兄、神代の友人達に葉書を認める。
香焼島に着く。病院に入ると、宏、智子は別段変っていない。文子が重態に陥っている。和子が見舞いにきた十三日から文子が血便を出し始めて以来日々悪化していたのであった。和子は帰れる筈がなかった。宏が大喜びでベットを降りて膝にまたがり両手を首に巻いてしっかりしがみつく。
「お母チャマは!」と尋ねる。「まだ帰りなさらんネー」と答えるしかなかった。海を眺めながら「早く治ってあの小さな船で深堀に遊びに行こうね」というと、「ウン遊びに行こうネ」と喜んだ。
お世話になった方々に、御礼を申し上げて事務所に行って見る。ちょうど全員を集めて島本所長が訓示中であった。『この終戦を我々は承服できない。』武器をとって立つべし。この島は米軍にあけ渡し、深堀に渡り、野母半島に立てこもり、軍と行動を共にするのだ。……婦女子、傷病者は深堀に移す。』大変なことになった。外に方法が無い。三人の子供は、会社の診療班に一任するしかないと決心する。帰る船便の都合で病室にもどらず船に乗る。
八月十七日
早朝に起きて子供達がバラバラになった時の用意に胸につける名札を作り、米、缶詰を持って行く。長崎でも、香焼でも、急に終戦の混乱が始まって騒然としている。船員も逃げ出したので、船便も大変悪くなって十一時にようやく島に着く。
病院に入ると、昨日と同様宏が大変喜んで膝にまたがり首にしがみつく。今日は母のことを尋ねない…不憫でならない。宏が、急に元気がなくなり熱も出してると、和子は言うのだがそんな様子に見えぬ。昨日の島本所長の話を子供達に聞かせ、「バラバラにならぬ様に……最後には、神代に落合うこと、それが出来ねば親戚を頼ってゆくこと、お互いに連絡すること……」等を申し合わせる。持参した食料、迷い子札を残して帰路に着く。今日は宏が後を慕って別れたがらない。それで和子が宏を抱いて窓から手を振りサヨナラをする。これが宏と文子との永久の別れになってしまった。
八月十八日
空襲の心配がなくなった。湿気の多い壕の中に博子を寝せておくのは良くないので、この日終日かかって小屋を作り、これに博子を移した。博子は益々よくない。血便もやまない。この子だけ医者に診せていないのが申し訳になくて詫びた。そしたら博子はいろいろ自分の不注意を詫びるのである。
八月十九日
会社の梶谷さんがお出になって、宏が昨日、文子が今朝永眠したことをいんぎんに伝えて下さる。私はなんと答えたのか記憶がない。涙も出なかった。神の摂理を信じるのみ、しっかりせねばと思う。この不幸を博子に告げないことにする。
その夜、博子は突然に鼻出血を始める。鮮血が流れ出てやまない。時々棒状に凝固した血塊を出した後で又出血する。どうにも出来ない。手の施し様がない。夜の明け方ようやく止血する。又この時から毛髪がゾロゾロと抜け始めた。
八月二十日
博子は意識が混濁し始めて、時折ウワゴトを言う。相変わらず血便を出す。夕刻、梶谷さんが来訪、宏と文子の遺骨をとどけてくださる。明子、文子、宏、三人分の遺骨が小屋にならぶ。
八月二十一日
博子昨日より静かになる。いよいよ危篤状態である。
脈もいよいよ弱くなり、午後二時二十分永眠する。(年十七才)
これで五人目である。近所の家族でも同様に死んでいった。御悔みの言葉を交わすだけで改めてお互いに行き来はしなかった。
博子は苦しかった様子も無く、安らかに眠っている。博子ちゃんと呼んでみる。破れ小屋に、一つ蚊帳の中で、博子と枕を並べて眠る。
八月二十三日
近所の人達に手伝って貰うて、畑の中に古材をならべ、板を敷きこの上に博子を寝かせ、晴着のオメシを掛け、さらに燃料を積み上げ、父一人で讃美歌を歌いつつ火をつけた。
原爆の炸裂と同時に地上から青いもの一切が消えうせたのであるが、残った地中の根から芽を出し始めている。里芋が一番早く、雑草も追追芽を吹き出し始める。原爆で半焼けになったカボチャを食べると病気するという風評がたったが、食べつくした後で仕様がない。左様な物しか無いのだからイヤでも食べなければならない。人体実験に供せられているようなものだ。
八月二十四日
香焼島に渡る。島に上陸して間もなく和子がやってくるのに出合う。「和子!どうしたんだ。」
和子「智子チャンも死んでしまいました。」
父「智子も死んだ?」……辛うじてこう言えただけであった。和子は、骨を包んだ黒い風呂敷包みをさしだした。
病院では、あれ程充満していた患者が片っ端から死んでゆき、一部退院して数名が残っているだけであった。
智子は二十一日夜から下痢を始め、二十二日から毛髪が抜け始め、全身に紫色の斑点が現われ、午後になると歯ぐきに血の塊がついて、それを取ってやると、後に又すぐ同様のものが出来た。夕方になると、鼻からも口からもゴボゴボ出血し出し、看護婦に注射して貰っても止血しない。終夜出血しつづける。二十三日も出血し続ける。
「鏡を見せて」という。髪の毛は抜けている。昨日から急に顔の半分、口から耳にかけて皮がぺろりとはぎとれている。その上鼻血で汚れている。鏡は見せられない。
「鏡は無いよ。隣の小父さんに貸した」と言っても承知しない。しぶしぶ渡すと、自分の顔を眺めて悲しげに下においた。死を覚悟して姿勢を正し、手を胸に組んで死を待った。一時二十分永眠したという。この子は家の下敷になって、五時間も出して貰えなかったのであるが、一番元気そうであり、-この子だけは助かると、自分も和子も思っていたのに。―和子と江平に帰る。
五人分の遺骨を小屋に積み上げる。妻富士の遺骨はないが、ヘソのオを見つけたので加えた。
八月二十五日
正午から腹がゴロゴロなり、痛み出して下痢をする。血便が出た。子供達と同様の症状が自分の体に始まった。腰の力が抜けて歩行が出来なくなる。二十六日、二十七日症状は増悪するばかり、二十八日子供達が死んだ川南病院に入院する。一時危篤状態になり遺言までしたのであったが、危機を切り抜けて四十八日目に退院した。
〔和子さんは二十一年三月師範を卒業し、神代小学校に奉職したので、父と一緒に住んだのであるが、和子さんの手記によると、父文甫氏は、精神的打撃もあったであろうが、一向に健康すぐれず、病気勝ちでしばしば血便を出した。二十二年八月にまたまた血便を出したので、長崎に行って療養しても一向軽快せず、十一月には神代に帰り以後二ヶ月半も血便が続いた。そして腹が大きく腫れ、手足はやせ衰えて、写真で見る永井博士とそっくりの姿となり、十二月には医師より絶望を宣告され、年明けて三月十一日に天に召された。〕
(聖三一教会)
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